気分にむらの多い人を、一般的に大人という認識がしづらいですね。
感情のコントロールができないことを他人に見透かされてしまうからです。
つまり幼児性と通じる性格です。
この性格的な問題は、許容範囲なら憎めない個性として受け止められます。
ですが限界を超えると躁鬱的な症状とみなされてしまいます。
そういう心的症状を医学的にさまざまに分析して、治療に当たっている現状です。
私たちの見解は、呼吸リズムの回復無くして根本的治療にはならないと見ています。
物理的な投薬治療にしても、いつ再発してもおかしくはありません。
なぜなら、その心に原因があるからですね。
症状が緩和したことで治癒の錯覚をします。
しかし物事を観る力が養われてないと、いつか同じ感興が必ず呼び覚まされます。
これは価値観が固定化していることが原因と考えられます。
金属を切断するのに、ふつうのノコギリを使っていたのでは歯がポロボロになります。
金属用のノコギリを使わなければなりませんね。
自分の価値観というのは、ある意味ではノコギリなのです。
そのノコギリで切れるものもあれば、切れないものもある。
つまり、通用する相手もいれば通用しない人もいるのです。
それを見間違えて他人を判断していたら、誤解と批判をされてしまいます。
やがて被害者意識、被害妄想に悩まされることになります。
ノコギリの歯がポロボロになって、切れない切れないと言って悩んでいるのです。
その解決のためには、歯を取り替えなくてはなりません。
物事を観る力を養うのは、価値観の多様性を認めることです。
替え刃の種類がいくつもあるということです。
これは、無節操に人と迎合しようとしているのではありません。
むしろ逆で、その人に影響を及ぼすだけの人格なら、相手は変容してゆきます。
私たちは呼吸の側面から人格についての考え方を持っています。
安定した呼吸リズムがあるということは、思考の安定を示しているということです。
そういう思考同士は共鳴し、より波長が合うのです。
さらに、乱れた人の呼般や思考をも安定させる働きがあります。
ここに影響力が及びます。
呼吸を整えるということには、人格を養う力があります。
知識や能力が豊富ではなくても、泰然たる人格者にはなぜか及ばないと感じるのは、強い生命力を本能的に感じているのではないかと思います。
その人が発するリズムや波動にいつかしら感化されているのです。