人が信じられなくなるというのは、どれほどの不幸か分かりません。
たとえどのような不幸に見舞われようとも、信じるに足る人がいなくなるということは断じてありません。
ですから簡単に「信じられない」などの言葉を口にするべきではないのです。
それを発したその時から、不幸が次々とやってくるのだということを肝に銘じておくべきです。
と言うのも社会は、信託を原則としています。
何かを信じて任せるから、自分のやることに専念できますね。
自分のやることにしても、他者からの信託があるから成り立っています。
それぞれの受け持ちを全うするには、他のことは誰かにお任せする必要があります。
肉体にしても、その機能を信じているから健康でいられます。
それが信じられなくなると、遅かれ早かれ病として現れてきます。
つまり、人を信じるということは生命の維持と同様の意義があるわけです。
しかし、時としてそれが裏切られることがあるのですが、原因はさまざまです。
裏切られる原因を自分で作っていることもあります。
あるいは、認識不足によって、その行為が理解できないこともあります。
裏切られたと早とちりするような場合、自分の不明を深く恥じ入ることがあると思います。
長い目で見れば、教育の一環であったことが分かるのです。
人を積極的に裏切ろうとする人がいるとは思いたくはないのですが、甘いというご指摘を受けそうなので、一応述べておきます。
人を裏切るという行為が、結果として孤立と孤独の環境に置かれるということは、想像のつくことです。
それをあえて選択する人がいるのも確かです。
でもふつう、そういう人の存在はわずかです。
わずかではありますが、インパクトがあるために相当数いるのではないのかという疑心暗鬼になります。
気にするなと言われても、気になってしまいますね。
そういう人の言い分に耳を傾けてみると、それなりの理由があったりします。
よくあるのが、自分が信じられていないから、と言うわけです。
なるほど、それならそういう行動を取ること自体は無理ないな、と感じます。
その人の行いを認めるわけじゃないですが、信じられていないと思ってしまったのはどういうことなのか。
人間不信となる経過があり、結果的に行動が裏切りとなります。
その利己的な思考が第一原因ではありますが、一部のそういう人の存在でもって、不信社
会を認めたくはありません。
できうる限り多くの人々を信じたいというのが、私たちの基本的なスタンスです。
連日のように、犯罪報道は絶えることがありませんが、感情的に許せない気分を持ち続けるということが、果たしてよい結果につながるのか。
残念ながら、それは望み薄です。
私たちに求められるのは、それでもこの社会を信じるということです。
必ずよくなるということを信じ続けること、これ以外にはありません。
信じられないからといって、それに同調するような行動を取るなら、今度は自分が裏切り者となってしまいます。
そうではなくて、人を信じてゆくことによって、自分だけでなく周囲の人々も、迷妄のなかにある人々ですら、歩むべき道を取り戻すことになるのです。
信じてゆくことを決意した人には、それなりの責任が授けられることになります。
しかし、報われてあまりある幸福感も与えられます。
信じて生きてゆくということがどれほど素晴らしいことか、身をもって体験することになります。
いつの時代も、幸福や愛を信じる人と信じない人(言い換えれば不幸を信じる人)との戦いが繰り広げられてきました。
この戦いは戦争という形にはなりえません。
なぜなら幸福を信じる人は、人の善なる姿を見続けているがために、どのような人に対しても、愛の手をさしだしています。
また自分が犠牲になって、人の目覚めを促してきました。
私たちも、信じるという意味においては、目覚めた人間であるべきだと思います。
世も末だと嘆く前に、やるべきことはたくさんあります。
感謝呼吸という学びと実践の背景にある社会も、考慮に入れた生活をしなければ、それが結実することはありません。
どうして感謝呼吸を実践することに意義があるのかと言えば、少なくとも今生きているこの時代を、幸福に生き抜くための一つの力となることが実感できるからです。
さらに時代の変化に縦横無尽に対応できるということが、感謝呼吸の存在価値を高めています。
それでなくては、これまでの数十年の試練に耐えうる方法としては存在し得なかったのです。
数十年前のぎこちないスタート時点からは想像できないほどに、そのスタイルが確かなものとなってきました。
先輩たちの信念に満ちた努力も私たちにとっての大きな財産です。
そしてさらに、ドシドシと社会へと環流されてゆくことにもなります。