私の源となる至福の探訪は、新しい知覚をもたらしました。
どこかにある謎を暗中模索するようなぐらついたものではなく、自分の手の中に握っていたことを忘れていたような、安堵感でもあります。
自分の手の中にあった、、
ただそれだけの気づきなのです。
あれだけ必死になって探していたものが、全て自分の中にあるという衝撃と喜びは、言葉にするのがもどかしいくらいです。
私たちは、人間としての肉体を持って人生を歩むことを宿命づけられています。
肉体を生かすも殺すも自分次第です。
本当の自分として生きる肉体表現者になれば、全てが自然に運ばれます。
私は、肉体と一緒に至福を感じていたいと願うようになりました。
ただ、生活者の側面もあるので、そこはないがしろにしない、ってことは肝に落として。
それが、感謝呼吸が息吹きはじめたルーツでもあるのです。
これからの時代の迷子になる人々には、何を目標にして生きていけばいいのか、わかりずらくなるでしょう。
本当は、そのままの自分でいればいいだけなのに、何か別のものになろうとしてしまいます。
溢れ返る情報の海の中で、自分を見失い、溺れてしまう可能性が高くなります。
そんな状態を認めて、常に自分自身に帰る、自分を取り戻すという意識を持ち続けていれば、やがて自分の位置がわかるようになります。
自分の位置がわかれば、どこに行けばいいのかは自然にわかります。
幼虫時代は一番長いものです。
羽化する前はサナギになります。
成虫になれば、あっという間に命は役目を終えます。
成虫は、永遠の命を確信し、自由を喜び、物的生命に執着を持たなくなります。
そういう意味で、まだ幼虫でいるのが、私たちの姿なのかもしれませんね。
そのままの自分でいることは、もしかしたら最も難しいことかもしれません。
偽りの人生を生きるように教育を受けてきたわけですから、それを脱ぎ去るには計り知れない苦労があるかもしれません。
でも、最大の気づきを得る喜びは、苦労した分、格別にもなり得ます。
その瞬間がいつなのか?
実は、「いま」以外にないのですけどね。