アルベルト・シュパイツアー博士(1875~1965)は、
「本当に幸福になれる者は、人に奉仕する道を探し求め、ついにそれを見出した者である。これが私の確信である」
との言葉を残しています。
文字通り、彼の人生は奉仕の人生であり、アフリカの赤道直下の国ガボンで、原住民への医療に力を注ぎました。
ふつう日本人である私たちが考える幸福というものは、
よい学校へ行き、よい職を得て、結婚して子供を育て、そこそこお金持ちで、病気もせずに長生きして・・
という、なんだか都合のよいものばかりです。
そんなご都合主義のようではありますが、個人的な幸福の価値観としては確かに存在しています。
もしそんな人生を送れて、自分が幸せであると感じられるのならば、その人にとって幸福だと言えるのは間違いありません。
しかし、そうであってほしいのに、次から次へと問題が表れ、さまざまな悩みを抱えては、苦労しているのが現実ではないでしょうか。
たとえ家族の聞ですら、すきま風が吹いたり、争いの種が絶えなかったりするのは、どういうことなのか。
たとえば、近隣住民との間では、それぞれのエゴが表れ、トラブルがあったりします。
あるいは、学校が悪い、制度が悪い、政治が悪いと言つては、社会に責任をなすりつけたりもしています。
このように外に向けて、問題の原因を見つけようと努力をしている問、その問題が解決するということはありません。
これまでも話してきたように、自分の存在が外の条件に左右されている聞は、心が落ち着くということはないのです。
そうではないでしょうか。
もし理想的な環境が目の前に現れても、それに感謝することもなく、なお何かに不満を持つことがあるのだとしたら、いつまで経ってもそこに幸福な状態が出現することはありません。
さらに永続的な幸福を得ようと思えば、並々ならぬ努力と知恵を要します。
今はそれなりに幸福だと思っていても、時間が経てば、どのような不幸が現れるか分かりま
せん。
つまり幸福というものは、一つのところに止まっていてはくれない、ということなのです。
これを仏教では「諸行無常」という言葉で表しました。
全てのものごとは、常に変化し、一定ではない。
幸せであると思っていたのに、不幸は突如としてやってきます。
愛する人との生活や日常が、永遠であると思っていたのに、いつかはそれが崩れてしまいます。
あるいは、幸せな毎日が真実であると思っていたのに、苦悩の日々が訪れ、それまでの幸福がいったい何であったのかと、帰らぬ幻のような日々を取り戻したく思うものです。
これは人生の真実であり、自分だけの幸福を求めている聞は、そのジレンマとの戦いが途切れることはありません。
ただささやかな幸福を求めているだけなのに、それでさえままならないというのはどういうことなのか。
人はこの疑問の答を求めてきたし、まだ多くの人々が求め歩いています。
冒頭に、シュパイツアー博士の言葉を紹介しました。
本当に幸福になれる者は、人に奉仕する道を探し求め、ついにそれを見出した者である、
との言葉は、多くの人が経験した真実です。
人への奉仕が難しいことと思うでしょうか。
それが難しいことと思っている人には、幸福はまだ遠いところにあります。
しかし、「なるほど、意外に奉仕というのは身近なことからできるのではないか?」と思える人には、幸福がほぼ手中に収まっているのです。
人生のさまざまな現実と幸福の関係を観察しながら、感謝呼吸がどのように、私たちの幸福に貢献してくれているのかを述べてみたいと思います。
もしかしたら、涙を禁じ得ず、生きるための気力が一層呼び覚まされるかもしれません。
あるいは、人生を全うするということが、どれほど大事なことかが理解できるかもしれません。
悲しみなどの不幸が私たちに教えてくれている意味も分かるかもしれません。