こんにちは!ソウダです。

7月に入りました。

5月に再開したこのブログも、気がついてみれば7月に入りました。

第2章なんて名づけてやってみたものの、
どちらかと言えば、勘を取り戻すような取り組みだったので、
思いついたことをちょこちょこと並べてきました。

ですので、あんまり統一感はないんですが、
私としては楽しくやってこれたと思います。
ありがとうございました。

 

さて、これからなのですが、
このブログではあるテーマを重視して書き進めてゆこうと思っています。

それは何かというと、「私たちはひとつである」ということ。

スピ系の人たちには、とても馴染みが深い言葉だと思いますが、
スピ系であろうとなかろうと、
この真実の持つ素晴らしさをお伝えしたいと考えています。

私の場合、ブログに書くことは、いったん自分を白紙にして、
浮かび上がってくるテーマをもとに、構成を考えていました。

なんでそうしているかというと、
私であるあなたと、あなたである私
に向けての記事を書いていたわけです。

人のお役に立てることはとても嬉しいことですが、
実は自分の役に一番立っているということも事実なんです。

どうしてそんなテーマが浮かぶのかは、
不思議といえば不思議ではありますが、
実は私であるあなた、あなたである私
求めだということも、わかっていました。

今もしかしたら、「?」という感覚だとしても、
これから実感として分かってくると思いますので、
おつきあいいただければ幸いです。

言ってみれば、第3章の始まりです

その手始めに、自分と他人、自と他を分けている
個別な思考について考えてみたいと思います。

思考がエネルギーだということは、よく言われますので、
知識としては多くの人が持っていると思うんです。

しかし、エネルギーといってもピンと来ない人も多いと思います。

この場合、動因です。
動かせる元の力、そう考えてみてください。

何かを考えることで、
私たちは感覚的に「思考している」という認識が得られます。

まさにそれは事実です。
頭のなかで言葉がユラユラと流れていきます。

「私は何かを考えている~~~~」みたいに。

あるいはイメージが浮かんでいたり、想像が働いていたりします。
そういうのをまとめて思考と捉えています。

じゃあ、なんでそういう現象が起こっているのか、ということを考えだすと、
なかなか答えに到達しません。不思議です、謎です。

これは思考というエネルギーが脳内で言葉やイメージに翻訳されて、
何かを考えている、という認識を得ているわけです。

それがあまりにも瞬間的で高速なために、
私たちには不自然さが感じられないんですね、思考は。


ですので、もし私たちが言葉を持たない生き物だとしたら、
本能的な行動を繰り返しているのかもしれません。

言葉によっていったん整理して、行動を判断していると言えるでしょう。

赤ん坊が成長する過程で、少しずつ言葉を獲得して、
その言葉に従って行動に縛りをかけてゆくようになります。
自由自在な子どもたちが、言葉によって不自由になってゆくのは、
人間社会の皮肉な姿なのかもしれません。

一般的に私たちの記憶は、
さかのぼってもせいぜい3,4歳くらいまでしか戻せませんよね。

おそらくこれは、言語やイメージで翻訳できるところまでが限界なのでしょう。
それ以前の記憶となると、
少し違った領域の出来事を思い出す作業になるのです。
ですので、逆立ちしても思い出すことはできない

このように思考はとても個別的で、
自分の思考が脳内で展開していると感じるために、
私たちは自分を自分として認識しています。

少しまとめます。

思考はエネルギー。
エネルギーは主に脳で、言葉やイメージに翻訳される。
思考は言葉や想像だと認識している。

さて、この思考というエネルギーの産物は、
扱い方によってはとても厄介な動きを示します。

そうです、私たちは「悩み」ます。

この悩みをめぐって、
いまの世界は成り立っているといっても過言じゃありません。

しかし、思考がエネルギーであるという認識が、
個別具体的な悩みを解消する方法へと導いてくれたりもします。

つまり、どういうエネルギーとして翻訳させるかによって、
思考は温度差を持ち始めるということです。

幸福も不幸も、
エネルギーの温度差という捉え方もできるわけです。

危険物取扱者なんて資格もありますが、
思考というエネルギーの取り扱いは、
まだまだこれからの課題なのでしょうか。

ではでは 

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